~高嶺の花というイメージが構築されたころ~
戦後、占領軍の進駐が始まると、パーティなどにカトレアが使われ、予期せぬ需要が起こったことは有名な話です。
本格的な営利栽培の始まりでもありました。
しかし戦後までに生存した株は少なかったために、供給が不足して高値で売買されたため、洋ランは高価というイメージが起こり始めたのです。
1944年1株1円のカトレアが1949年のイースターの祝日では1輪1,300円になったと伝えられています。
当時、カトレアの普通種、高級品種の切り花1輪で350円以上だったといわれています。
1950年に農業協同組合法に基づいて日本洋蘭農業協同組合が発足しました。
その後、1952年、サンフランシスコ講和会議、平和条約・日米安全保障条約調印による占領軍の引き揚げにより需要は減退していきました。切り花の相場も低迷して不安定になっていきました。
1955年よりラン株の輸入が開始され、英国系の優良品種が導入され、米国より倍数体品種を導入されました。
高度生長期に突入していく中で、国民経済の安定から贈答用、冠婚葬祭用の需要が現れました。
1959年より、大規模生産、企業的生産が始まりました。いわゆる『洋ランブーム』といわれ、新規参入の生産者が増加した時代でもありました。洋蘭専門農家は約200軒、洋蘭兼業農家が900軒くらいは存在したといわれています。
それに伴い、1962年、洋ラン鉢物専門市場の日本洋蘭㈱なども設立され、流通状態がよくなっていきました。
1964年のフランスのモレル博士によるメリクロン技術の発見、すなわち『クローン苗の大量増殖技術』はラン業界に革命を起こしました。他の作物と同様、安価で均一な苗を大量に供給できるようになったのです。この時点で「投機目的としての資産的植物の価値は消滅した」のかもしれません。しかしこれにより集約性の高い洋ラン栽培は農業経営として取り入れられ、生産農家が増加していった時期でもあります。
1967年には国産のシンビのメリクロン苗が販売されました。
その後、1973年のオイルショックが施設園芸業界に与えたショックは大きかったようです。当時ラン業界では大きな変化が起こり、冬期のエネルギーがあまりかからない沖縄に温室の分園を持つ業者も数軒現れたほどでした。しかしオイルショックによって、エネルギー費に関する事柄に注目され、洋ラン栽培が減るどころか、増えたようです。
逆説的な考えが起こり始めていたようで、冬期にかかるエネルギー費が同じなら少しでも高価に売れる洋ランに施設園芸の将来をかけようとした農家が多数存在したようです。
続く
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