小春さんの園芸日記
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つまづきの石

2020/08/16
つまづきの石 拡大 写真1 つまづきの石 拡大 写真2 つまづきの石 拡大 写真3

『つまづきの石』です。シュトルパーシュタイン Stolperstein と呼ばれています。ベルリン出身の彫刻家、グンタ―・デムニッヒ Gunter Demnig が1996年に始めたプロジェクトです。ナチスの犠牲になった人々の名前や生没が刻まれた真鍮のプレートが、その人々が最後に住んでいた家の前の歩道に埋め込まれています。ドイツ国内から始まり、25のヨーロッパ諸国に広まっています。現在75000以上の躓きの石が埋設されており、ホームページでは地図と共に、プレートに刻まれた一人一人について、詳細が記録されています。私が住んでいる通りにも5枚のプレートがあります。

10㎝に満たないコンクリートの立方体で、上が真鍮のプレートになっています。歩道の石畳の間に埋まっており、目立つものではないので、気が付かずに踏んでしまうこともありますが、目に入った時には必ず読みます。一瞬でも、そこに住んでいた、ある日突然日常から引き離されてしまった人に思いを馳せます。普段の生活の中で、一瞬だけでも思い出す、素晴らしい企画だと思います。等身大以上あるこれ見よがしの少女像のような、すれ違うたびに頬をつねられるような感覚はありません。その像の前にひれ伏す安倍首相の像に至っては、グロテスクとしか言いようがありません。

このプレートは、刻印から埋設まで、デムニッヒ自身がしています。埋設には、市と、現在の家の所有者双方の許可が要ります。中には『暗い歴史が知られると不動産の価値が落ちる』『ネオナチの報復が怖い』といった理由で、埋設を拒否する人もいます。また、右翼によって石が掘り返される事件も起きます。その都度、一般市民から多額の寄付が寄せられます。一つの石に掛かる費用は設置も含めて120ユーロ。寄贈して、決まった石のパートナーになることも出来ます。市のホームページで設置の日取りが分かるので、近所の人が出向いて献花します。

残念なのは、ポケモンGO という遊びにこの石が使われていることです。この石は遊び場ではありません。開発元の Niantic は米国の企業とは言え、日本にもかかわりの深いポケモン。製作者のデムニッヒも呆れかえっています。

『ここに住んでいました:クラウス・マンフレート ローゼンタール 1929年生 1943年5月17日アウシュヴィッツへ強制送還・殺害』
二枚目は6枚のプレートをまとめましたが、実際には一枚ずつ一軒の家の前の石畳に埋設されています。19~28歳の兄弟5人が殺害され、テレージエンシュタット、アウシュヴィッツなど、収容所の名前が読めます。右端下段の一枚は、5歳で上海に逃げています。アメリカやスイスへ逃げる財力が無かったユダヤ人は、陸路上海やハルビンへ渡ったことが多いです。
三枚目はアンネ・フランクのための躓きの石です。

みんなのコメント(14)

はじめまして。
「つまづきの石」についてつい2・3日前にTVで紹介されていました。6年前にベルリンに行った時は全く気が付きませんでした。もっと知らないといけない事があったのを今残念に思います。
それよりの「つまづきの石」の回りにポイ捨てのタバコの多いのが凄く残念です。屋外でのタバコには閉口しました。
色々勉強になりました。ありがとうございました。

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ももクリスマスさん
はじめまして、こんばんは

やはり8月15日前後には、戦争に関する放送が多いのでしょうか。目立つものではないので、気付かずに通り過ぎても不思議ではありません。こうしたプロジェクトには批判がつきものです。『記念碑を踏みつけるとは』という、イスラエル人文化協会バイエルン支部の猛反対に遭い、ミュンヒェンには一つもありません!ミュンヒェン市全域で、設置しないと決定していますが、その決定に対する反対運動も盛んです。元々バイエルンは右寄りが強いですから、設置されずに終わるかも知れません。吸い殻がポイ捨てされているのは遺憾です。普通、埋設された家の人や、プレートを管理する人が、定期的に磨いています。強制送還された日には花やろうそくを置いていることもあります。

こんばんは!(ドイツでは午後5時前後でしょうか?)

アムステルダムのアンネ・フランクの家を訪れた事があります。ナチスの迫害から逃れる為に
一家4人を含む8人が2年間も隠れ家の屋根裏部屋に住んでいた話は余りにも悲しすぎる話です。父親だけが生き残った為に日記が陽の目を見たのは後世の為にはせめてもの救いでしょうか? それにしても忌まわしい過去の物語ですね。 「つまずきの石」は良い話として読ませて戴きました。

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murachan さん
こんばんは 

アンネ・フランクハウスを訪ねられましたか。私はまだ行ったことがありません。夏休みに娘を連れてアムステルダム旅行を予定しましたが、自粛しました。正統派ユダヤ教徒を除く普通のユダヤ人は、普段ユダヤ人であることを自覚することも、その必要も無く、普通のドイツ人とほとんど変わらない生活をしていました。アンネの実家は金融業を継いだ裕福な家庭です。父親のオットーは、一次大戦でドイツ軍に徴兵され、功績を買われて陸軍中尉にまでなり、第一級の鉄十字まで授与されています。彼の兄弟も第一線で戦い、負傷兵の看護に就いた母親や妹と共に、一家を挙げて祖国ドイツのために尽くしています。そういった人達は非常に多く、ポグロムが始まったと聞いても、西欧社会に溶け込まない正統派ユダヤ人に対する迫害で、自分たちが祖国から不利益を得るはずはないと思っていました。

オズナブリュック Osnabrück には、日記にはペーター・ファン ダーンの名前で登場するアンネの恋人、ペーター・ファン ペルスのつまづきの石があり、実家も残っています。生身の人間として容易に想像できます。

つまづきの石って言うんですね
まず 写真だけ ホ~っと感心して(こういうのも
有るのね~)見ていたら 3枚目アンネフランクって
読めました(笑)
横文字は苦手意識で最初から読まないあっかんべーです

アンネの日記は子供の頃(学校図書館で)読んでて
大人になってから改めて買って読み返しましたよ
今もマイ本棚に園芸本と一緒に有りますウッシッシ
遠い国の出来事・・・ととらえてましたが
小春さんの日記では、度々ドキッとするような事
あのナチスの事が(不発弾が埋まってる公園とか)
書かれてて 身近なのね~と思い返されます

小春さんの住んでる通りにも5枚もプレートが
有るんですね 本当に身近な出来事ですよね~

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ボタンちゃん
お早うございます。

アンネリーゼ(アンネ)・マリー・フランクの生家と、2歳から1934年にオランダへ逃げるまで住んでいた家は、二軒ともフランクフルトにそのまま残っています。瀟洒な建物です。このプレートは、オランダへ逃げる前に住んでいた家の前にあります。

区内全域で、現在3078のプレートがあります。生年を見て、子供だったり、若い人だったりすると、胸が痛みます。息子のお産の最中に、病院の隣の建築現場で不発弾が見つかって、避難させられました。『歩ける人は歩いて下さい』って、皆さん脱兎のごとく車いすやベットに飛び込み、椅子取りゲーム冷や汗 はい、歩きました。車いすの奪い合いなんて、ニッポン人の沽券にかかわります猫2

解りやすく、そして詳しく、いつも学校の生徒と先生の気分で文面を読ませて戴いてます。タイムラグ無しで一万キロ近くも離れた距離をこうしてお話出来る時代になったなんて、凄いことだと思います。今後とも生徒の立場で小春さんの授業を楽しませて下さい。m(_ _)m

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murachan さん
お早うございます。

学校の先生だなんて、とんでもないです冷や汗

本当に凄い時代になりました。年に一度、新年に両親に電話するために、公衆電話用の硬貨を少しづつ貯めたのが嘘のようです。そのうちに、匂いまでインターネットで伝わる時代が来るかもしれません。

日本だと「過ちは繰返しませぬから」という、主語が誰で何が「あやまち」かは雰囲気でって感じになってますが、一つ一つの人間を掘り起こすというのは、ある種の情念がないとできないですよね。もっともそれが、また別の問題につながっていうという側面があるでしょうが。

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あおさん
こんばんは

キリスト教精神の根本は『赦し』ですから、『赦す・赦さない』というレベルのやりとりはあまり感じません。それよりも、世代に関係無く『忘れない』ことを大切にしています。蛮行を正当化しようとする右翼にとっては、こんなプロジェクトは許し難いもののようです。

1970年12月 ポーランドとの国交正常化条約に調印するためにワルシャワへ出向いた、当時の西ドイツ首相ヴィリー・ブラントが、ゲットーの記念碑の前で献花後、突然ひざまずいて、黙とうを捧げました。西ドイツ代表団は唖然として首相を見つめ、帰国後には保守側や大衆紙から猛反発や批判に遭います。50年経ちましたが、あの瞬間が無かったら…と思います。

右翼が強いバイエルン地方では、このプレートに対する反感も強いです。「『イスラエル文化協会が犠牲者を足元に踏みつけることになる』と反発している」というのが表向きの理由ですが、実際には議会でも万々歳で反対決議しました。ミュンヒェンやアウグスブルクには、私道に埋設された3枚を除いて、1枚もありません。バイエルン&オーストリアは、右寄り、アンチセミティズムが強いです。オーストリアで演奏するのを拒否する、ユダヤ系の音楽家が増えてきているくらいです。アジア人でも、明らかに観光客でないと判ると、町中で見知らぬ人から罵倒されます。音楽活動はバイエルン・オーストリアの方が盛んですが、絶対に住みたいとは思いません。

私も、murachanさんのコメントに、全く同感です。

相手に解りやすく話せるって、小春さんは素晴らしい能力と知識を兼ね備えた方だと、常々感服しております。ぴかぴか(新しい)

韓国の日本に対する様々なこと、家のお嫁さんは「よくやるよなぁ」と笑っています。
ソウルの、ごく一部の人たちがやっていることなのでしょうが、日本人には、韓国の全国民の考えと受け止めてしまいますよね。冷や汗

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雪媛さん
こんにちは

相手に解りやすく、というのは、私の能力ではなく、ドイツ語の特徴だと思います。文法に諸々規則があり、文を組み立てるところから始めなければなりませんが、ものを考えるには適した言葉のようです。学校教育でも、言葉で自分の考えを表すことを徹底的に習うので、子供たちには太刀打ちできません。同時多発テロだったか、タイの津波の時だったか覚えていないのですが、救出されたドイツ女性がインタビューを受け、『とても言葉では表せません』・・・一瞬の沈黙の後、では、なぜ言葉で表せないのかを『理路整然滔々と』話し始めました。勲章を授けたいほどのドイツ人でした。

ベルリンでも、韓国の女性グループがやって来て、在独韓国人と合流し、大規模な反日デモを複数回催しています。慰安婦にされたというオランダのグループとも合流しました。実際に参加していたのは、もちろん体験者自身ではなく、話を聞いた、聞いたことがある人ばかりです。観光客が多いブランデンブルク門の前に、件の少女像を設置してビラを配り、狼煙を上げていました。1966年来、西ドイツでは、人手不足を解消するために、韓国から一万人の看護婦さんを招請しました。三分の一以上がそのままドイツに残り、二世・三世も含めた大きなコロニーを造っています。移民三世代目の若い子達までもが焚きつけられているのか、反日感情をむき出しにすることが多く、残念です。自分の頭で考える教育を受けている筈なのですが。元首相のシュレーダーが四半世紀年下の韓国女性と5度目の結婚をし、反日親韓路線を突き進んでいることも影響しています。元慰安婦をノーベル平和賞候補に推薦する運動を支持しているくらいです。

家の二階は、日本女性と韓国人男性の若いご夫婦に貸しています。とても細やかな気使いをする優しい男性で、力仕事などをお願いしています。その彼の表現を借りると『私の国には恨みをエネルギーにする人が多いんです』

今晩わ

アムステルダムを旅行した時にアンネの記念館を訪ねました。
若い頃アンネの映画を見たり、本も、読みました。

アウシュビッツは、訪ねたことはありませんが、ベルリン郊外の収容所跡を訪ねた衝撃は、今でもあの重苦しい匂いと言うか空気を、忘れられません。

ベルリンのチャアリーチェックポイントのそばの壁の記念館も、衝撃でした。
壁の跡を辿ることが出来るように、埋めてある目印のことも、思い出しました。

ベルリンにもあった、縫製場跡の隠れ家の記念館も、訪ねたことも思い出しました。

ドイツのつまづきの石も、素晴らしい事ですね。
日本では、なかなか出来ない事だと感心致します。

ネオナチなどのような反対勢力が、ある事も、ベルリンに赴任していた娘に聞いた事がありました。

娘は、車で通勤してましたが、私は、娘の所に遊びに行った時は、電車やバスを使っていたので、娘に気をつけるように注意を受けました。

旧東独に足を踏み入れると道も悪くて、雰囲気が違うなあと感じていました。

小春さんのブログを読ませて頂けて、いつも感心するばかりですが、世界が広くなり、有難い事です。

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rumikoh さん
こんばんは

収容所の開放があと数カ月早かったら、アンネ・フランクの体験を彼女の口からきけたはずです。恋人のペーターのいたっては、開放のわずか三日前、記録では解放二日後に亡くなっています。

郊外でしたらザクセンハウゼン辺りでしょうか。70周年の折に出かけ、日記にも載せています。宜しければご覧ください。
https://www.shuminoengei.jp/?m=pc&a=page_mo_diary_detail&target_c_diary_id=216519

私はずっと西ベルリンなので、東側はあまり馴染みが無いのですが、地域によっては左右翼両極端です。外国人の私は、統一前の東ベルリンへ簡単に行かれました。当日有効のビザを5マルクで買い、20だったか25マルクだったかを東のマルクと1対1で交換します。月に一度出かけて古本屋で楽譜やレコードを買い、音楽会に行き、最後に観光客向けのグリルレストランで食事をするのが、学生時代唯一の贅沢でした。東に住んで西の学校に通いたいと思ったくらい、誰もが取っつきは悪いけれど親切でした。

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