夜更けの訪問販売員

写真1

写真2

写真3

夜更けにドアを叩く音がする。
よれたアイシャドウに、乱暴に下ろした髪。
人前に出る格好ではなかったが、考えるのも億劫になり、
そのままドアを開けた。

玄関先には、ラクダが立っていた。
「乾いてらっしゃいませんか」
長い睫毛をバサバサと動かしながら、ラクダは私に尋ねた。
「乾いてらっしゃいませんか」
挨拶も自己紹介もないその言葉に憮然としながら、
「何が」と短く吐き捨てれば、ラクダは更に続ける。
「色々なところですよ。爪の先とか、鼻の頭とか。
ああ、それからあなたのような方の場合は心とか」

指先に火花が走ったような気がする。チリリと焦げ付く何か。
短い苛立ちの導火線に、火がついた。
「心？私の心が乾いていると？
見ず知らずのラクダに言われる筋合いはないんですがね」

ラクダは大きな瞬きを一つした後、ひっそり笑って、
私の裸足の足元にマツボックリを一つ置いた。
「これを絞ってお飲みになるといいですよ。では」
そういうと、呆然と突っ立ったままの私を残して、
さっさと階段を降りて行った。
コチリコチリと蹄の音が遠のいていく。

冷たくなった足の裏に痛みを感じて、我にかえった私は、
マツボックリを拾い上げ、靴箱の上に載せた。
開ききったマツボックリを絞っても、
水分など一滴も出るはずがない。
ラクダの睫毛を思い出しながら爪を噛むと、またドアが鳴る。
ラクダが戻ってきたのか。
私の心よりもマツボックリのほうが乾いているではないかと
厭味を言ってやろうと思い、ドアを開ければ、
レッサーパンダが居た。

「あのう、隙間あいてませんか」
勝手に押し掛けて、他人の心理にケチをつけるとは
どいつもこいつも、失礼な奴らだ。
燻ったままの苛立ちが、熱くなる。
「へぇ、隙間ね。心に？建付けに？歯並びに？
それで何を処方して頂けるんで？」

「いいえ、いいえ、言葉です。
誰かへの言葉に隙間が出来ているようなので。
これ、詰めると、けっこう埋まりますから」
そそくさと1本の麦藁を私の掌に押し込むと、レッサーパンダは
太い尻尾をフサフサと揺らしながら、去っていった。

酷い言われようだ。
ラクダにもレッサーパンダにも、
何か今まで恨みを買うような事をしただろうか。
身に覚えがない。
もう沢山だ。これ以上は受け付けられない。
呼ばれても応えないと強く思いながら、
ベットに潜り込めば、勝手にドアを開ける音がした。

ノソリノソリと、重たい足音が近付いて来て、
ムフゥと鼻息が聞こえた。
ああ、誰が一体来たんだ。
毛布を頭まで被って息を殺していると、隙間から、
縞模様が見えた。
トラだ。

「足りないんだろう。」
トラは一言言うと、毛布を持ちあげ丸くなった私の横へ
大きな身体を滑り込ませた。
何がとも、何故にとも言えないまま、膝を抱えて黙っていると、
トラは、また大きく鼻息を吐いた後、
「寝てしまえ。こんな時は寝てしまえ」と言って、
それきり本当に眠ってしまった。
大きな毛皮に包まれて、どうしていいのか分からないまま
目を閉じたり開いたりしているうちに、
私もどうやら眠てしまったらしい。

朝起きると隣には、もうトラは居なかった。
玄関には、乾いたマツボックリと麦藁1本、
そして、丸くてすべすべして、縞模様が何本も入った掌に載るほどのオレンジ色の石が一つ、置いてあるきりだった。

顔を洗って、歯を磨き、髪を結って、睫毛を上げて、
私はその日も仕事に出た。

それきり、ラクダもレッサーパンダもトラも
私の部屋には来ない。
それきり、私も特に変わりはない。


写真：
野毛山動物園　冬のポスター　 より

• 日々