日本一の球根マニアって本当!? 小森谷 慧さん、実はこんなすごい人だった!<前編・新星現る>趣味の園芸10月号こぼれ話
ウェブサイト「みんなの趣味の園芸」だけで読める連載「テキストこぼれ話」。『趣味の園芸』テキストの特集に登場した、講師の方にインタビューします。専門家の方だけが知っているおもしろい情報が満載です。
今回は、10月号の「球根・宿根草」特集で「この秋絶対に植えたい球根ベスト3」の講師を務めた小森谷 慧さん。『趣味の園芸』テキストに度々登場してきた小森谷さん、実はこんなにすごい人なのです! 誌面ではお伝えしきれなかった人となりを、「みんなの趣味の園芸」限定でたっぷり紹介します。
前半は、若くしてグラジオラスの育種コンテストを総なめした、園芸業界騒然のエピソードからスタート。球根栽培にハマるきっかけとなった出来事を教えていただきました。
小森谷 慧(以下、小):実は私、「趣味の園芸」には迷惑してるんです。(柔和な表情の中にも鋭い眼光が光る。)
編集部(以下、編):えっ、それはすみません。
小:まあ、迷惑というと言い過ぎですけどね。球根特集っていうと、必ず僕のところに連絡が来る。小森谷ナーセリーは宿根草から(今は)一年草まで幅広く扱っています。それが、「趣味の園芸」のおかげですっかり球根のイメージがついてしまっている。
編:(たじたじと)やっぱり球根っていうと小森谷さんというイメージがあるものですから・・・。それに、お言葉を返すようで恐縮ですけど、そんな強力なイメージがついていること自体、すごいんじゃないですか?
小:確かに、私が園芸の世界にのめりこんだきっかけは球根植物のグラジオラスの育種です。17歳とき初めてグラジオラスの交配を試み、昭和35年の夏、都内で行われた「グラジオラス展示会」で、一等賞を2つ、二等賞を3つ、三等賞を3つ受賞しました。
編:ちょっと、すごすぎますね。疑うわけではないのですが、小規模なコンテストだったわけではないですよね。
日本グラジオラス倶楽部の1961年会報。古い資料ならではの趣がある。
小:そうですね。わたし以外の入賞者を見てごらんなさい。二等賞の川畑寅三郎さんは、天理市の大和農園の育種部長、いわば業界のボスのような存在でした。三等賞の淺川孝好さんは、確か、野菜の水耕栽培を研究するアメリカ進駐軍の機関に所属していた専門家です。
編:そんな方々をおさえて一等賞をとられるとは、絶句してしまいます・・・。
グラジオラス展示会の審査結果が掲載されている。一等賞「真澄」「花曇」、二等賞「濃艶」「八重椿」「麗人」に小森谷 慧の文字。これらの品種名は展示会当日に即興でつけたという。
「小森谷氏の作品の豊富さ、その水準の高さは驚くばかり」と激賞の審査員。
小:これが契機となり、以後65年というもの、興味の赴くまま多種多様な植物を収集したり、新しい品種を生み出したりということを続けています。
編:小森谷さん、いったいお幾つなんですか?
小:(いらっとしながら)突然ですね。昭和12年生まれです。
編:西暦でいうと何年ですか。
小:1939年、あ、間違えた。1937年です。
編:1937年って、戦前ですよね。歴史の生き証人ですね。
小:幼少期は疎開先の埼玉でアメリカの戦闘機から逃げ回っていましたよ。小学校のときに終戦を迎え、千葉に移り住みました。当時、駄菓子屋の店先に、「花の絵袋」といって、花の絵が描かれたタネ袋が1袋5円から10円で売っていました。その絵に惹かれて集めていましたね。でも自分では蒔かず、園芸関係ではない父親が育てていました。
編:そのときはまだ特別園芸に興味があったわけではないのですね。直接のきっかけは?
小:一度農学校に入学したのですが、園芸専門の先生に何を聞いても要領を得なかったので中退しました。授業料を払うなら球根を買った方がまし、というわけです。当時、アメリカで球根の取り引きが桁外れに大きいという記事を読んで、スイセンの育種をしようと思い、著者に問い合わせました。するとスイセンは結果が出るまで7~8年はかかる、1~2年で交配の結果が出るグラジオラスをやりなさい、と勧められたのです。それでグラジオラスの育種をやってみたというわけです。
編:10代後半で育種を始め、たった数年でこのような結果を残されるとは、おそるべき天才の出現に、業界は騒然となったでしょうね。
小森谷 慧(こもりや・さとし)
園芸研究家/千葉県で球根植物、切り花などのナーセリーを経営。17歳から育種を始め、球根植物は育種、生産、販売を手がけて65年。世界中の球根マニアが憧れる日本生まれの品種を多数作出している。
『趣味の園芸』テキストの特集に関連して、担当編集者による講師へのインタビューなどをウェブ限定で公開します。(毎月2回更新予定)